会報誌「東海銀杏会通信」は、基本的に2月と7月の年2回、発行しています。

東海銀杏会通信 No.14

発行日:H16.2.10
発行人:東海銀杏会 編集人:角田 牛夫
目次
H15年度秋期例会報告
H15年度 秋の講演「発明クラブと子供たち」
東京大学の沿革 その8
三英傑の遺構を訪ねる会・第4回
囲碁同好会 三木会
ゴルフ同好会・第6回ゴルフコンペ開催のご案内
H16年度 総会・後援会・懇親会 開催のお知らせ

編集後記

(各記事の最終部分にあるをクリックすると、この目次まで戻ります)

平成15年度 秋期例会報告
常任幹事 畑 長年(S37文)
初の司会も堂々と 嶋田晋氏

カッコいい!! 家田重晴氏
司会の畑長年氏(S37文)

乾杯の石丸典生氏
木戸泰明氏(右・S42工)と
清水順二氏(左・S49工)が見学会をPR

ごきげんに話も弾む
報告する中野淳司氏(S36法)


桑門氏(S43工)による「乾杯!」


H15卒の男性2人組、
お酒も入って一寸リラックス?


各テーブルを回って
しっかりとコミュニケーション


南木 通氏(右・S50法)もにこやか


ピアニストの河合毅彦氏(右・S60文)も
楽しそう


懇親会の続き?盛況な二次会


「両手に花」の垣沼淳司氏(S32農)

東海銀杏会平成15年度秋期例会が、9月17日(水)名古屋マリオットアソシアホテルにおいて開催されました。
 例会に先立ち、午後3時30分から拡大幹事会が開かれ、前回に引き続き、会員拡大の方法、東海地区同窓生名簿の作成などについて話し合いましたが、名簿について、今回も結論を出すことができませんでした。
 また、近藤詔治代表幹事兼組織委員長の後任として一丸陽一郎氏(S46経)、常任幹事として小野恒夫氏(S54経)の新任が承認されました。

■講演会

 午後4時30分から6時まで、16F「サルビアの間」で(財)豊田理化学研究所 刈谷少年発明クラブ会長の桑門 聰氏(S43工)による講演会が開催されました。テーマは『発明クラブを通じて見た近頃のこどもたち』。参加者は70名でした。
 長い歴史を持つ発明クラブの活動によって、刈谷市の創造力が全国レベルを大きく上回る成果を上げていること、さらには大学教育に対する提言など、幅広く示唆に富んだ講演でした。
 また途中に、紙飛行機を飛ばすなど、童心にかえるひとときもありました(概要は次ページ以下に掲載)。

■懇親会

 懇親会は、午後6時15分から8時15分まで、16F「アゼリアの間」で開かれました。畑常任幹事(S37文)の司会で、太田宏次会長の開会の辞とあいさつの後、中野淳司代表幹事、木戸泰明常任幹事から、それぞれ、東大ホームカミングデイと東海地区産業文化見学会の紹介と参加の呼びかけがありました。
 続いて当日の講演者、桑門 聰氏の音頭で乾杯、出席者110余名が13の卓に分かれて歓談しました。
 宴たけなわの午後8時、松林正之常任幹事以下の東海銀杏会応援団が登場、全員で応援歌『ただ一つ』を合唱し、大島宏彦副会長の閉会の辞をもって懇親会を終わりました。
 この後、場所を変えての二次会にはおよそ40名が参加、大いに盛り上がりました。
 次回、平成16年度の総会は平成16年3月29日(月)、秋の例会は9月15日(水)、いずれも名古屋マリオットアソシアホテルで開催予定です。みなさまの奮ってのご参加をお待ちいたします。
東海銀杏会平成15年度 秋の講演
発明クラブと子供たち〜CPDに携わった経験を通して〜
財団法人豊田理化学研究所理事・刈谷少年発明クラブ会長
桑門 聰(S43工)
市川祐三氏
桑門 聰氏

表1
『工夫の神様 豊田佐吉翁』
132件の特許を個人で所有
100年以上前の日本の基礎産業である
繊維産業の基盤を作った偉人

図1
女の子に任せなさい!


70名が参加した講演会場

はじめに簡単な自己紹介、続いて発明クラブの話、CPDの話、企業内教育をやっていたので、その頃のこと、それから発展してJABEEすなわち大学の教育課程審査機構の話をさせていただきたい。

1. 自己紹介

 1968年工学部精密機械科を卒業し日本電装(現、デンソー)に入社した。自動車関係では安全の関係、ボディの関係、振動・騒音に関連してエンジンの関係に至る様々な分野に関わった。この後、技術研修センターに異動し技術開発から人材開発分野に移った。同センターは対象の技術者が7,000〜8,000人いるが、簡単に言えば企業内大学である。教育科目は100科目近くの学科に及んでおり、その中が細かく分かれているため、先生が約300人、生徒は年間延べ15,000人程度来る。その業務の関係で、工学教育をどう推進するかを産官学で検討する日本工学教育教会で企画・海外委員会、精密工学会でモノづくり教育体系委員会に関わっていた。精密工学会のモノづくり教育体系委員会では、学科単位で編成されている大学の教育改革に関わった。もう一つがJABEE(日本技術者教育認定機構)である。これは後で詳しく触れたい。以上は技術者育成が主体であるが、厚生労働省技術者高度化研究会委員・調査員は技能が主体であり技能伝承に関係していた。2001年から財団法人豊田理化学研究所・刈谷少年発明クラブ副会長、2003年理事・会長をしている。

2. 刈谷少年発明クラブの活動状況

<発明クラブとは>
 発明クラブは文部科学省研究振興局の下部組織で、親組織の財団法人豊田理化学研究所(1940年設立)は同局学術機関課の所管であり、発明クラブは社団法人発明協会の下にも入っているが、振興企画課の所管である。同課は勲章・表彰の担当課でもある。発明クラブは1904年設立であるが、70周年を記念して全国に刈谷と千葉の2ヵ所に試みに設立された。当時の会長はソニーの井深大氏である。刈谷は日本初・日本一と称しているが、千葉より3ヶ月ほど早く発足したからである。今協会に所属するクラブは150ほどあるが、全国のクラブ人口約8,000人、刈谷は800人で数では日本一、年間参加人員が全国で100,000人、刈谷が12,000である。土曜日と日曜日に、半日50人ずつで100人、2日で200人、50週で10,000人という計算になる。愛知県内では、他に安城、大府、豊田、東海、西尾がある。豊田は大変大きなシステムになっており刈谷とほぼ同じ規模である。対象は小学校2年から中学校3年まで、主として刈谷市在住者である。目標は「科学的な心」を持った児童・生徒の育成で、教育内容は、モノづくり工作に関する「安全教育」、創造性育成補助のために基礎知識を教える「基礎・上級コース」、それを使って子供が勝手に作る「自由工作コース」、夏休みの宿題片付けの「夏休み自由工作コース」がある。全国組織の機構は発明協会の少年少女発明クラブ以外にはないが、子供たちへの働きかけは多数ある。官公庁から企業、学校、科学館、博物館、水族館、動物園、天文台などもいろいろな行事を行っている。展示会・コンクールもいろいろある。世界ではアメリカが図抜けており、Odyssey of the Mind(世界青少年発明大会というようなもの)には約30カ国、5月頃に5,000人集まる。スタッフが7,000人いるので12,000人集まり、大学のキャンパスを使って世界大会を行う。近くでは韓国が国内各地に徹底的に作っている。発明展などで優勝すると工学系の大学まで無試験で進める仕組みになっている。中国も同様なメリットを有する仕組みを持っている。愛知県内で行われる子供たちへの働きかけは、トヨタグループ企業、技能士連合会、刈谷市では小中学校が課外でいろいろなことを教えている。文部科学省も全国的に展開、大学・学会等もいろいろなところで事業を行っている。ただ、これらは1回限りの単発の行事である。

<人間の才能の捉え方>
 発明クラブで活動を行うに当たって、人間を横軸は才能(知識・技術・技能)、縦軸は徳(人格の高さ・情の深さ・老婆心)、この二つの独立の軸で捉えてみる。45度を境に上に行けば君子、下に行けば小人・才子、あるいは聖人に対する愚者という構図が考えられる。心が足りない人は知識が優れていても愚者に過ぎないであろう。最低レベルの精神的高さがなければ、才を磨いていくと悪党になってしまう。教育は縦軸のレベルアップを狙うものであろうと思う。企業の新人も縦軸でいいのではないか。今は発明クラブに関係しているので、ひたすら縦軸でいいと考えている。また横軸に近いところであるが、発明クラブでは体験を身に付いた知恵にできることを教えていきたいと思っている。それには体験し体感し実感し体得するということが重要であろう。自分でやって良い失敗をする。失敗をしてはいけないとよく言われるがそうではないであろう。そうしてこのサイクルを繰り返すことではないか。その時、基礎知識がないと良い失敗か悪い失敗かは判断できない。つまらない失敗をしてしまう場合がある。失敗しても大丈夫だという失敗を受け入れる気持ちを形成することも大切である。さらに、知識化の訓練、体感・実感を纏めて人に説明できるようになれば良い。そのため体験レベルで安全教育と基礎コースの教育をやり、基礎知識を習得し、受け入れる心の醸成をして基礎コース、上級コースを行う。学年、学校、男女を越えたチームでやる上級コース、子供たちがこうした流れを築いてくれる、それを我々指導員が補助するのである。

<クラブの役割>
 大切なのは児童・生徒に対してクラブが何をするかということである。目標は科学的な心を持った児童・生徒を育てようということであるが、(財)豊田理化学研究所が場所と道具と材料を提供、つまり資金を提供する。これはトヨタグループ各社がバックアップしている。ではクラブが何をやるかといえば、教える内容を充実させ、指導方法を改善し、指導力を向上していき、躾がされているのか、基礎知識があるのか、工作が安全に精度良く速くきれいにできるか、評価しながら指導する。そして子供達に不足しているところとして自主性、想像力、発想力を何とか育ててやりたい。我々の原点は豊田佐吉翁であり132件の特許を個人で所有する技術屋であるが、100年以上前の日本の基幹産業である繊維産業の基盤を作った偉人である。当時、繊維産業が興きていたが、佐吉翁は大工で機械的な技術はすくなかった。当時、すでに技術は英国が一番進んでおり、その次が米国であった。「もうやることがない」という気持ちに今の子供たちがならないように、技術的閉塞感がある中でどうしても繊維をやりたいという気持を持ったこの佐吉翁を子供たちに伝えていきたい。豊田自動織機の創立者ということを超えて現在にすぐにも通用する人だと考えている。豊田佐吉愛用の100年前の大凧が刈谷の発明クラブに展示されている。

<モノづくりの安全教育>
 モノづくりの安全教育では、自分で考えついた作品を安全に自作できるようになることを目的に、以下の内容のことをやっている。「工夫」は工作課題を与えられて自分の工夫を入れて何かを作ること、「図面」は夢を形にするために部品を揃えられるレベルにする、「木工」は、道具が使えて怪我をしないように、「はんだ」は火傷しないように、「電気」はスイッチの使い方だけで制御ができるように、といったことを教えている。4年生主体の新入クラブ生が夏休みの工作ができるようにする。1クラス50人、7種類の教育を6クラスでやっているので、300人が毎年入ってくる。
 「工夫」では、ふわふわ飛行機を例に小さな細工で飛行機が飛ぶという不思議さ、羽をこう切ったらどうか、これでも飛ぶか、などこどもが面白いと感じたら自分からやり始め、もう先生の説明を聞かなくなる。その意味で座学は難しい。飛行機用の紙の材料を与えるとすぐに自分で始める。このテーマを植物の勉強に置き換えると、種はどう自分の子孫を広げていくのかになる。インドネシアの植物の中には上昇気流に乗ると最高飛行距離は200kmといわれている。それだけ飛ぶ種をまねて、切り方によりグライダーになり、全翼型飛行機になる。鳥の羽のように尻尾もつけたのがエーリッヒタウベ(Taube:ドイツ語で鳩)という飛行機、ある時期は戦闘機にまで発達している。高学年であればなぜ飛ぶのか、重力と流体力学の関係でどうしたら揚力が働くのかを教える。たったこれだけの一枚の紙であるが、飛行機の歴史、揚力のことなどいろいろなことに子供たちが興味を持ってくれるのではないかと思っている。
 「図面」はモノづくりの言葉であり、これを覚えるために、三面図の意味と書き方ということで、透明の中に入って3ヶ所から絵を描かせる。これを拡げると3面図ができるということを教える。座学では仕掛けを大事にしているが、話して聞いてもらえるのは5分から10分以内。図面はなぜ大事かという話をする。展開図はどんな役に立つのか。缶ビール6本を入れた紙のケースは拡げると1枚になる。展開図で箱を作っている。展開図もいずれ商売になると説明する。贈答品の菓子箱も展開すると驚くほどきれいに1枚の紙で箱が構成できる。そういうことを図面で教える。「木工」は自分が次に作りたいので順番に並ばせていると、一生懸命に見て覚える。先生が付いていて、2年3年の子供に電動鋸を使わせる。指が入らないようにガードを設置してある。頭を打たないような安全装置も施されている。従来の両刃鋸も教える。次は自分で切るので説明を熱心に聞いている。しかし、いざ始めるとやはりわからないので、先生が回ってもう一度教えるのである。そして繰り返し、実際に切ると鋸の使い方を覚える。こうしたことを繰り返すのである。
 金槌で釘を打つ場面では50人が一斉に行うと非常に壮観である。釘を打つのに何が必要かを教える。釘と金槌だけでなく定規、鉛筆、消しゴム、木工ボンドと錐が要る。どこに釘を打つかを鉛筆で書いてどれとどれをくっ付けるかを木工ボンドで仮止めをする。錐で下穴を開けてその位置に釘を打たせる。そうするときれいに打てるということを教える。こうしたことを繰り返すのである。
 「はんだ」と「電気」では女子が4割いるが、ギアボックスを自分で組み、はんだ付けし、そのスイッチを使うと前後に自由に動くようになることを、自分で覚えていく。
 1年目は一定期間安全教育をやり、あとは自分たちで作りながらいろいろなことを考えていく。2年目はモノづくりの科学、後は展覧会や競技会に出るが、これはやはり夏休みに集中する。地域への貢献度をスポンサーからしばしば聞かれる。刈谷地区の小中学生の総数は減っているが会員在籍数は増えている。随分信頼されているといえる。アンケートで夏休み以外では参加できない理由を尋ねると、自由工作に参加したいが部活や塾などで忙しいという理由が挙げられるが、それ以上に作る作品が決まっていれば参加するという回答が4割以上ある。自分で考えることが苦手のようである。親は「子供にやらせてほしい」「指導員が手を掛けすぎる」というが、これができないということは家で余程手を掛けているのではないかと言いたい。テーマを与えると行事への出席率が高くなり、カリキュラムが決まっている方が出席率は高まる。子供たちの自主性は育っていないともいえる。自分がやりたいことが決まっている場合でも、3つぐらい作業を指示した場合でも、「先生、次は何をやるのですか」という質問はしてくるが、精々一つしかやらない。次は「やってもいいですか」と毎回聞きに来る。義務教育では皆の進度が一致するようにしているからではないかと想像をたくましくしている。

<カリキュラム構成・運営の考え方>
 作るものを決めておくということで、皆で一緒にまず共通課題を作る。それから独自の工作をやらせよう、半完成品を作ってそれから独創性を入れて完成させよう、というカリキュラムを始めた。例えば、全員が一緒に作るのは二足歩行ロボットの足の部分だけである。4年生でできるレベルである。最初に与えるのは板と図面である。どの板をどの部品に当てて組むか、モータとギアが入っているのでギアボックスを組む、その後、ある子供の事例では安全教育で教えたフラッシャーや電気回路を目に応用しており、ウィンクしながら歩くロボットを作る。1クラス20数人が講師の目が届く数であるが、25人のクラスの中で仲良しの女の子が作ったペンギン3羽以外はほとんど皆違うものを作った。子供達はかなり高い潜在能力を持っていると思われる。クラブでは連続性のあるカリキュラム構成にするため学年でクラス分けをし、持ち上がり制度を取っている。能力別に分けたいのだが、いますぐ分けるのは反感を買いそうなので行っていない。毎学期、各クラスでいろいろなことをやるので、100個程度のネタを持っていないと成り立たない。できるだけ原理説明実験を付け加えている。凧の例でいうと、きれいで(美)、丈夫で(機械強度)揚がる(流体力学)ということを目標として、簡易な風洞実験をやりながら、飛行機の飛ぶ原理も同じだということを教える。進度差が出てくるのはしかたがないため、ある子供たちには余分に日曜日の自由工作の日に来てもらっている。こんなことでいいのかについて親に評価のアンケートをとり要望を聞きながら実施している。費用は年間3,000円であるが高いという人もたった一人だがいたのには驚いた。

<刈谷発明クラブの評価>
 刈谷の理科教育を評価してみたい。全国小学校数23,808校、刈谷15校、全国中学校11,159校、刈谷6校。先生方が狙っている「日本学生科学賞」(中学校)は全国入賞41点のうち刈谷は入賞4点で、全国に対し181倍の入賞率、「自然科学観察コンクール賞」(中学校)では、過去40回の上位入賞校は全国15校に対し刈谷4校で494倍の入賞率となっている。「市村アイデア賞」(小中学校)は全国入賞39個のうち刈谷は入賞28個も取っている。こうした成果について朝日新聞が取材に来た。発明工夫展(小中学校)は5点までしか入賞できないので50倍の入賞にとどまっている。発明クラブ開設当初、週に1日しか休みがなかった時期に、新任理科教師は子供たちを連れて発明クラブに来ていたが、そのころの教師は、今、教頭、校長になっている。その伝統がつながっている。これは誇っていいことだと刈谷市の教育委員会に言っている。理科の教師とは理科教材の検討会や製作会をやるとともに、相互交流としてクラブからは学校に行って教える、教師はクラブに来て義務教育と違うことを教える、といったことをやっている。もう一方で大事なのは家庭である。母親等に対し、当クラブでは火傷や怪我をすることを前提としており、それがいやなら来させないでほしいといっている。ナイフで手を切って痛さがわからないと医者にはなれない、という話をしている。月1回、親子一緒にやる行事がある。

3. CPDについて

 CPD(continuous professional(personal) development)とは、生涯継続自己啓発・自己学習という意味である。元々はprofessionalであるが、個人的にはpersonalの方が良いような気がしている。「APECエンジニア」として世界基準に合う技術者の共通規定を作り、2005年から相互認定が始まる。日本工学教育協会でも作業を行っている。FE(fundamental engineer)、PE(professional engineer)、CE(chartered engineer)と同等の規定である。それに伴う技術者資格新設であるが、例えば、技術士、技術士補に更新制度を入れるというようなことについて各学会が検討しており、精密工学会に関係する領域で関わっている。
 もう一つはJABEEに関して、米国のABET(Accreditation Board for Engineering and Technology)の日本版とでもいうもので大学の工程検査であり、教育制度は良いかどうかという、ある意味で大学の出口チェックである。

4. 大学卒業生に対する企業側の評価

<工学士の実力>
 今の工学士の実力を皆がどう思っているかであるが、企業内教育に携わっていた時に製図の研修を新しく作った。図面の読図能力が不十分では特許の図面や製品図面が不正確ではないかという認識で、子供が描くような写生図と正確な三面図が書けるかどうかの簡単なテストした。要求能力は70点以上に設定していたが、物理工学系48点、電機・電子・情報工学系50点以下、頼りにしていた機械工学系も60点以下という結果を受け、大学は何を教育しているのか疑問に思えた。そこでカリキュラムを見ると機械では最低単位数で卒業できるような学校では、図学1単位、製図1単位、その他の学科ではうまくすり抜ければゼロで卒業できるシステムを取っている大学もある。教えていないためできないのである。成績の悪かった学生だけを集めて研修をした。線が見えるように透明模型を作って教えた。1日やった結果、研修前43.4点の学生が研修後86.5点まで上がった。

<大学への提言>
 そこで大学への提言として、日本工学教育協会総会で発表した。(1)モノづくりに必須である基本的読図能力の教育、(2)製図教育だけでなく、工学の基礎力育成、(3)企業内研修カリキュラムのヒアリング、などを実施してほしいということである。高等学校への進学率の変化を見ると、1955年が52%、1965年が71%、1975年が93%、そして現在は97%と大幅に変わってきている。この図を逆さにして縦軸を学力とすれば大変良く理解できる。高校は底を突き大学も凋落の一途であり、何とか保っているのは博士課程であり修士課程も危うい。末松・赤岩レポート(「教育工学」より)のデータを見ると、企業側は専門知識、問題発見能力、解析・応用力、知識力が重要必要能力としているものの、本音は積極性・意欲があれば後は会社で教えると、かつては標榜していた。実際の数値で学科ごとに見ると、機械系では「必要度」に対して卒業生が持っている「現状レベル」が足らないものが多い。電気・電子系では少ない。学校とのコミュニケーションは電気・電子の方が良いかもしれない。産業機械製造業の高度化、国際化への貢献と言われているが、要求と乖離しているのではないか、低下しているのではないかを精密工学会で調査した結果では、(1)基礎的な学力が不足している、?知識を応用する力が不足している、(2)実験・実習・演習の力が不足している、(3)一般教養が不足している、(4)体力・やる気・粘り強さ・対人関係力はある、という大変厳しい結果であった。最初に報告したのは大学の先生方に対してである。「素材はいいけれども教育がなっていない」といわれるがどうか。教員免許を持たないのは、大学及び発明クラブの先生だけである。

<ゴーマンレポート>
 参考までに、大学の学部評価の一例として、ゴーマンレポート(1998年)では、アメリカとソ連の大学を除いた世界の上位50校をヨーロッパで評価している。1位の大学と最高位入賞の日本の大学を比べると、(1)教授の質では、1位はパリ大学、41位東京大学、(2)授業内容では、1位パリ大学、46位東京大学、(3)カリキュラムでは、1位パリ大学、日本は該当なし、となっている。この評価が正しいかどうかよりも、世界にはこういう評価もあるということを考えておく必要がある。教育評価は不可欠であろう。

<図面に関する能力の重要性>
  1回目の結果は厳しすぎたので具体策は取りようがないと想定できる。どんな科目をどれくらいやればよいかを企業の生産技術系、開発系の部長、係長、3年以内の新入社員に聞いたが、このバックデータは1冊の本になって発行されている。一例だけ挙げると、必要度「材料力学」「ニュートン力学」「製品の図面化(目の前にある製品を計って図面にすること)」「作りたい製品の図面化(実験に必要な治具の図面を描くこと)」「微分・積分」、どういったものが丈夫か、図面は描けるかといった程度である。この業界では、偏微分、複素関数、原子量子力学等はあまり必要としない。工場原価計算知識は会社で教えるから大学での教育は不要である。こうした意見を組織的に取り込み、大学教育を推進することがJABEEの使命の一つである。

5. JABEEについて

<JABEEとは>
 JABEE(Japan Accreditation Board for Engineer Education)とは日本技術者教育認定機構のことである。日本では「技術者」という用語が新しく入っている。大学の教育課程を履修・卒業した学生を技術士補として認定できる教育課程であるか否かを審査・認定する機構であり1999年11月に発足し、翌年の2000年4月に審査を試行している。あっという間に他人が大学を審査し始めたわけである。官庁と大学だけでなく、産業界が入ったからこのスピードで進行していると考えられるが、今、大学は急速に変わり始めている。

<審査の仕組み>
 審査の仕組みを説明すると、JABEEが備えるべき基準を抽象的に提示し、各大学は独自性を出すために具体的目標を設定し、周知し、実施しているかを審査するということが基本である。これを入学者に対して提示しているか、継続的にチェックしているか、修了段階でこのコースを卒業したという認定をするか、卒業できなかったという認定をするかを規定どおりに行なっているかどうかをチェックする。学生は、自己点検して目標達成をすることが義務であり、その橋渡しをするのが教職員であるが、そのためのシステムは完備し改良され続けているか。チームを編成して学習の質・量、教育の質・量を維持・改善しフィードバックを掛け、補習もしながら、ネットワークを組んで、学生が達成度評価を自分で行うためのシステムが制定され、周知され、実施されているか。これを学年毎に繰り返していく。全体を通じてまとめるが、教育改善、継続改善ができているかを自己点検し、JABEEの審査員とやりとりをするのである。自己点検書はかなりの厚みであるが、それを読んでチェックする。基準に合っているか、その証拠があるかどうかである。日々の教育は一人ひとりについてきちんとやっていて、成績がどうなのか、その時の試験問題はどうであったか、なぜこのボーダーラインの上は合格で下は不合格なのか、を説明する。証拠が不足している場合は現地で調べるが、膨大なバインダーに整理された書類をチェックするのに約3日間を要する。現地調査後も一定期間手紙でやり取りをし、異議申し立てもできる。いずれにしても、こうした取り組みを行っているため、大学も変化してきている。

<大学審査の実施手順>
 大学審査の実施手順は、(1)JABEEの審査基準の公示、(2)基準に対する自己点検表を作成する、ということはその学科の全教員が認識していることと同時に、教養部や他学科と共通になると、その部門とも連絡が取れていなければならない、(3)書類審査の後、現地審査に行く。学長、学部長、JABEE対応責任者、職員、卒業生、学生(在学生)を選んでインタビューし不明確事項を確認する。さらに施設や地域環境まで確認する、(4)現地審査とそれに基づく結果通知、(5)異議申し立て、?審査結果決定、となっている。通知するが公表はされない。合格した大学の名前だけがJABEEのホームページに載っている。もう一つは認定有効期間が付いているが、期間にはばらつきがある。

<自己点検項目>
 自己点検項目として、こうした文部科学省の決めたことが守られているかどうか、学生の支援体制、入学、編入など作成・開示・実施が基本になっている。先生にも勉強を要請し、教育の勉強をしている先生に対してはきちんと評価しなければならないということも盛り込まれている。皆が達成度の評価も自分で行えるようにする。教育点検システムがあり継続的な改善が行われているかをチェックする。

<学習・教育目標の設定と公開>
 学部卒のレベルのイメージであるが、データをもとにして考えた。昔の高卒のレベルに達しないで卒業する大学生がかなりの数いるのではないか。トップレベルは同じくらいのレベルと思われる。下のレベルが下がったことについて嘆くよりもトップグループに注目する方が良いのではないか。進学率が上がったおかげで、優秀な人の絶対数は増えている。もちろん、反面変な大学生も増えている。デンソーの新入社員の数学力について1991年度と1999年度の比較を試みた。1999年度の新入社員は数学の基礎的素養は向上している。
 中学生、高校生、大学生、社会人のトップレベルに注目すると、トップ・プル・アップ教育は日本でも既に行われている。過去、高度成長期に要求されていた教育は、何もしなくても伸びていたためボトムアップかつ横並び教育が中心であった。これから要求される教育は、トップ・プル・アップと公表し、なおかつ当分の間は拾われた若者を庇ってやらないと、だめではないかと考えている。ボトムアップ教育の継続実施も必要なのは当然である。
 国立高等専門学校、大学(学部卒)では「工学的常識を持った社会人」を育てていただきたい。工学的常識とは、高等学校卒業レベルの知識でよいが、習ったことをきちんと他人に説明できればよいのではないか。加えて、知らないことに出くわした時、自分で解決する道を教えておくこと、具体的には例えばどの本を見ればよいかという、本を教えておいてくれればよい、という意見もあった。また、社会人とは挨拶ができる人である。一見簡単そうに思えるが、実際はなかなか難しいともいえる。分からないことを人に尋ねる時、気持ちよく教えてもらえる人間になれているかどうか。教えてもらった結果がどうであったか、「ありがとうございました」といえるかどうかである。

6. まとめ

 子供たちは独創性の芽をそれぞれ持っている。鍋敷きを作れといった場合、鍋を乗せられないような鍋敷きを作る。きっとこの鍋敷きに乗せる鍋を考える子供になってくれると期待したい。大人が独創性の芽を摘むようなことを言い過ぎているのではないか。また優秀な大学生の数は確実に増えている。これらの素晴らしい可能性を未来につなげるためには、教育について、大人が真剣に考えて実行する番が来ていると思われる。
 家庭では、学校では、社会・地域ではどうしたらよいか。教育評論家であってはならない。私は何ができるのかということから始めないと、日本の教育は悪くなっていくのではないか。「あなたが教育について考えていただく時期がきているのではないか。」「あなたが教育に対して参加実行する時期がきているのではないか。」
東京大学の沿革 その8
藤村哲夫(29工)
戦後の東京大学の改革

東京帝国大学から東京大学へ

 昭和22年10月、本学は、「東京帝国大学」から「東京大学」に改称された。それによって、明治30年から50年間も続いた栄光ある「東京帝国大学」の名は消えた。
 これは、敗戦によって大日本帝国が消滅したことと「帝国」の名が帝国主義に繋がると判断されたためであろう。
 この改称は帝国大学令の改正に基づくものであるが、「東京大学百年史」は、この歴史的な出来事について一言も触れていない。

学部・学科の改編

 東京大学は、終戦を期に自ら戦時色を払拭し、平時体制に復帰することにした。
 昭和23年2月、千葉キャンパスにあった第二工学部を廃止し、その後に生産技術研究所を設置して、研究のかたわら、在校生の教育に当ることが決定された。
 第二工学部は、もともと戦争との強い関連で設置されたものであり、大学の中に複数の同一学部があるのは、全体の均衡を破るという新大学制度実施準備委員会からの提言に沿って廃止されたのである。敗戦によってわが国の工業は致命的打撃を受け、技術者の急な増員が必要なくなったという社会的背景もあった。
 それによって第二工学部は、昭和24年から学生の募集を停止し、昭和26年3月に最後の卒業生を送り出して閉じた。この時に卒業できなかった者は本郷に移された。
 GHQは、昭和20年12月にわが国における航空学研究と航空機製作を禁止した。それを踏まえて、本学では航空関係学科と軍事関係学科を改組した。
 第一工学部では、造兵学科を精密加工学科、航空学科の機体部門を応用数学科、航空学科の原動機部門を内燃機関学科に改称し、火薬学科を応用化学科に合併した。
 学部、学科の改編だけでなく、日本のこれから進むべき将来を見据えて、新講座が新設、増設、或いは拡充された。
 法学部は、これからの日本の労使関係の重要性に鑑み労働法講座を増設、医学部は、治療だけでなく予防医学を重視する観点から公衆衛生講座を新設、理学部は、新しい科学として発展が期待される物性論を主とする物理学第四講座を増設、工学部は、将来の工業に重要な役割を果たす高速内燃機関、塑性加工などの講座を拡充、農学部は、農業の機械化、効率化を図る農業機械講座を新設した。

研究所の改革

 「南方自然科学研究所」は、設立目的が南方地域獲得を前提にしていたために、終戦によってその存在意義が失われ、昭和21年に「立地自然科学研究所」に改称されたが、実績が挙らず、昭和27年に廃止された。
 GHQの航空に関する研究の禁止に伴って、昭和21年1月に「航空研究所」が廃止され、この研究所を母体として、同年3月に「理工学研究所」が設立された。
 連合国側に対日講和条約締結の意向がみられるようになると、GHQは、昭和25年6月に民間航空会社に限って路線の開設を許可し、翌26年10月に日本航空が東京、大阪、福岡に空路の運行を開始した。
 わが国の航空の再開に応じて、航空に関する研究を求める声が内外から起きた。それに応えて、理化学研究所は、航空に関係ない研究を他の研究機関に移し、実質的に航空関係の研究所に戻った。そして昭和33年4月に再び「航空研究所」になった。その後、研究範囲を拡大し、昭和39年から「宇宙航空研究所」と改称した。
 GHQの政策によって、国立予防衛生研究所が設立され、東京帝国大学の「伝染病研究所」の中の衛生行政に関する業務がそちらに移されて、衛生についての学理の研究と行政とが分離された。こうして、大学に残った伝染病研究所は「伝染病その他病原の検索並びにその予防治療に関する学理、応用の研究を掌る」ことになった。
 この他、昭和21年6月に社会科学研究所、昭和23年2月に生産技術研究所、昭和24年5月に新聞研究所が設けられた。

五月祭の復活

 本学卒業生にとって懐かしい行事に五月祭がある。昭和19、20年の2年間中断されていた五月祭は、昭和21年に復活した。
 五月祭の起源は、大正12年5月5日におこなわれた新入生の歓迎会を兼ねた学友会大会の園遊会であった。この日の午前中は各学部の施設や参考品などを他学部の学生に開放し、学生相互の知識の交換を図った。午後3時から懇親の園遊会が開催された。
 昭和4年からは学内のみでなく一般市民にも開放されるようよになり、昭和8年から、これを「五月祭」と呼ぶようになったのである。
学生歌「ただ一つ」
 東海銀杏会の懇親会で斉唱している「ただ一つ(昭和22年度入選学生歌・大森幸男作詞、山口琢磨作曲)」は、どのような背景から生れたのであろうか。
 南原総長は「本学に、学風を象徴し、学生生活を豊かにする歌がないのは淋しい。学生歌を募集したらどうか」という考えを昭和21年6月6日の五月祭役員慰労会の席で披露した。これに学生も賛意を表したので、6月11日の評議会に「大学歌及び学生歌制定」が総長より提案された。
 10月末の締め切りまでに集まった大学歌、学生歌は各々42編づつ合計84編であった。
 選考の結果、大学歌には該当がなく、次年度以降に委ねることになり、学生歌は4編を佳作として選んだ。その中に「ただ一つ」が含まれていた。
 この4編に対する作曲も募集して、音楽部の手で公開演奏会がおこなわれた。
 二、三度、演奏して、その中で学生の反応をみて、最終的に1編を選ぶことになっていたが、その結果はどうなったのか分からない。
 ただ現在、「ただ一つ」だけが、本学を代表する学生歌として残り、いろいろな催しで歌われている。

三英傑の遺構を訪ねる会・第4回 長久手古戦場(11/16・日)
世話人 清水順二(S49工)
奥村プロの三面指導碁も
色金山の床机石の前にて
後の歴史を作った長久手の合戦

公 (神君家康) の天下を取る、
 大坂に在らずして関ヶ原にあり、
  関ヶ原に在らずして、小牧にあり

(頼山陽『日本外史』)

 去る11月16日(日)、第4回三英傑の遺構を訪ねる会が参加者11名で開催されました。今回は、先回の江南・小牧の後を受けて、長久手の古戦場跡を訪ねました。
 当日は雨が心配されましたが、急速に天候が回復し汗ばむ陽気になりました。ほとんどが常連で顔なじみということもあって遠足気分です。
 資料館で少々勉強してから、池田恒興親子、森長可の戦死跡の碑を見たり、家康が陣を敷いた御旗山、色金山などを訪ね歩きました。また日進・岩崎城にも足を伸ばし、星ヶ丘で散会しました。
 今回の見学で印象的だったことは、当時の部将の若さです。池田恒興の岡崎進軍を引き留めた家康方の岩崎城主の留守役丹羽氏重は16歳。家臣300名ともども壮絶な最後を遂げることになりました。家康はこの一件などの働きを評価して後に丹羽氏に一万石を与えました。片や秀吉方の総大将三好秀次(秀吉の甥で後の関白)は17歳。秀次は後ろの家康軍に気付かず急襲を受けて命からがら逃げ延びます。

「古来の戦闘の勝敗を図上に記してみた時、軍勢の配置の良好なるもの、連絡の密なるもの、戦いの名分が明らかなもの、誤りの少ないものが勝者となることは明かである」
(『長久手の戦』 柴田義雄著)

 これは現在のあらゆる戦いにも通ずるものがあります。
 歴史の面白いところは、池田恒興の次男輝政(当時21歳)がこの戦にも参戦していて、家来の機転で落ち延び、後に秀吉の命令で家康の娘と再婚し、関が原では東軍として活躍するというところです。その後播磨52万石を貰い姫路城を築城したことは有名です。
 もし長久手で輝政が生き延びなかったら、世界遺産の姫路城はなかったかもしれません。
 次回は来春に、関が原古戦場、安土城址などを訪ねる予定です。
 新規参加者、夫婦同伴も大歓迎です。連絡先は、東海銀杏会(新企画担当)清水順二(49工卒:山田商会常務取締役)です。

 E-mail:simizu.junji@ymax.co.jp
 電 話:052-871-9811 FAX:052-871-9869

囲碁同好会・三木会
新春囲碁大会に22人
優勝は5連勝の小崎栄一氏(S25工)
猪子恭秀(S57法)
右から所氏、田辺氏
池崎プロもにこやかに観戦
 東海銀杏会の囲碁同好会である三木会は1月17日午後1時から、名古屋市東区東片端の日本棋院中部総本部にて新春例会を開催しました。当日は、朝から雪が積もる中、武田祥典プロ、会員17名、会員のご子息2名、お手伝い2名の総勢22名の参加で熱心に対局が行われました。
 武田プロには、指導碁をお願いし、例会の対局は持ち点方式のハンディーによる総当たり戦で対局をしていただき優勝は5連勝の小崎栄一氏(昭和25年工卒)でした。
 三木会に参加希望の方は、事務局の猪子(57年法卒、052-842-2111)までご一報下さい。
東海銀杏会ゴルフ同好会 第6回 ゴルフコンペ開催 のご案内
■日 時/平成16年4月10日(土) AM8:00頃スタート
■場 所/ベルフラワーカントリー倶楽部
    岐阜県瑞浪市日吉町8671-1 TEL. (0572)64-2121

会員名簿に“趣味:ゴルフ”と書かれた方には後ほど詳しいご案内を発送します。
それ以外の方で是非にとおっしゃる方も含め、奮ってご参加ください。

■連絡先/
松林 正之(S41農)大成建設(株)
TEL052-562-7520 E-mail : matuba@ce.taisei.co.jp
島川誠一郎(S56経)トヨタ自動車(株)
TEL0565-23-1611 E-mail : s_shimakawa@mail.toyota.co.jp
松林 正之(41農・大成建設)TEL. (052)562-7520

平成16年度 総会・講演会・懇親会 開催のお知らせ
日時/H.16年3月29日(月)
会場/名古屋マリオットアソシアホテル(JRツインタワー15階)
名古屋市中村区名駅1 TEL.052-584-1111(代)

詳しくはスケジュールをご覧ください

お知り合いや会員外の同窓生もお誘いの上、奮ってご参加ください。

編・集・後・記
寄稿歓迎!
 この冬、暖冬かと思えば、急に凍てついたり、先行き不透明な国情さながらです。加えて、BSEやらSARSやら鳥インフルエンザやらと、うっとうしいことばかり。会員諸氏、くれぐれもご自愛を−。
 さて、今号は、刈谷少年発明クラブ・桑門聰会長の講演録を軸に編集しました。前号同様、小竹暢隆さん(S51工修)の手早く、的確なテープ起こしに、大いに助けられました。感謝のほかありません。また、前号では割愛せざるをえなかった藤村哲夫さん(S29工)の玉稿「東京大学の沿革」も、載せることができ、ほっとしました。


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