会報誌「東海銀杏会通信」は、基本的に2月と7月の年2回、発行しています。

東海銀杏会通信 No.15

発行日:H16.7.20
発行人:東海銀杏会 編集人:角田 牛夫
目次
H16年度 総会報告
H16年度 春の講演「世界に開かれた地域づくりに向けて」
ゴルフ同好会 第6回ゴルフコンペ・優勝者寄稿
藤村哲夫氏 逝く
東京大学の沿革 その9
三英傑の遺構を訪ねる会・第5回
囲碁同好会 三木会 新春囲碁大会・優勝者寄稿
編集後記

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平成16年度 総会報告
常任幹事 畑 長年(S37文)
トップイメージ

司会の長谷川ひでひろ氏(S32法)
司会の長谷川ひでひろ氏(S32法)

議長の永井恒夫氏(S35法)
議長の永井恒夫氏(S35法)

猪子恭秀氏(S57法)

高岡次郎氏(S35経)
高岡次郎氏(S35経)

細川昌彦氏(S52法)による講演風景
細川昌彦氏(S52法)による講演風景

東大総長室顧問の池上久雄氏
東大総長室顧問の池上久雄氏

同窓会連合会代表幹事の日吉 章氏
同窓会連合会代表幹事の日吉 章氏

司会の畑 長年氏(S37文)
司会の畑 長年氏(S37文)

若者はまず腹ごしらえからですね
若者はまず腹ごしらえからですね

何やら難しそうなお話を…

若者の話題は何でしょう
若者の話題は何でしょう

酔うほどに座談もはずむ
酔うほどに座談もはずむ

思い出話は尽きませんね
思い出話は尽きませんね

ひょっとしてお仕事話でも…
ひょっとしてお仕事話でも…

真剣な議論も結構です

学生時代に戻ったようですね
学生時代に戻ったようですね

手拍子に蛮声…若返ります
手拍子に蛮声…若返ります

合唱をリードする応援団OB
現役時代そのままに
合唱をリードする応援団OB

譜面片手に「ただ一つ」を合唱
譜面片手に「ただ一つ」を合唱

閉会の辞は瀧 季夫氏(S29法)
閉会の辞は瀧 季夫氏(S29法)

約120名が出席、大盛況の春の総会

 東海銀杏会の平成16年度の総会・講演会・懇親会が、3月29日(月)、名古屋マリオットアソシアホテルで開催されました。
 総会に先立ち、午後3時から拡大幹事会が開かれ、昨年度決算が赤字であったことから、今後の対策について話し合いました。また、浅野晴彦氏(S45工、中部電力取締役発電本部火力部長)の幹事就任を承認しました。

■総 会

 総会は午後4時から開かれました。長谷川ひでひろ代表幹事(S32法)の司会により、永井恒夫副会長(S35法)を議長に選出、平成15年度の活動報告と会計報告および監査報告が、猪子恭秀会計担当幹事(S57法)と高岡次郎監事(S35経)から、平成16年度の役員体制と活動計画案および予算案が、木戸泰明常任幹事(S42工)と水野秀昭事務局長(S49工)からそれぞれ提案され、いずれも満場一致で承認されました。

■講演会

 総会に続いて午後4時30分から6時まで、細川昌彦中部経済産業局長(S52法)を講師にお迎えし、『世界に開かれた地域作りに向けて』というテーマでお話をいただきました。(講演の概要は3ページ以下に掲載)
この地域を世界に開かれた場所とするためには、まずこの地域のブランドないしはイメージを明確にすることが重要であること、また、外国人に優しいシステムづくりが今後の課題であることなどを、たくさんの例を挙げてわかりやすくお話しいただきました。

■懇親会

 懇親会は午後6時20分、中野淳司代表幹事(S36法)が開会の辞を述べて始まりました。来賓の池上久雄東京大学総長室顧問、日吉章東京大学同窓会連合会・東京銀杏会代表幹事、長崎新一同事務局長、大月功関西東大会代表幹事の紹介の後、池上久雄氏と日吉章氏からごあいさつをいただきました。
 続いて、当日ご講演をいただいた細川昌彦中部経済産業局長の音頭で乾杯、およそ120名の出席者が14のテーブルに分かれて歓談しました。
 宴もたけなわの8時すぎ、中野代表幹事以下の東海銀杏会応援団のリードで出席者全員が応援歌『ただ一つ』を歌い、滝季夫副会長(S29法)の閉会の辞をもって懇親会を終えました。
 この後、席を移しての二次会にはおよそ30名が参加、大いに盛り上がりました。
 次回秋の例会は9月15日(水)、その次の平成17年度春の総会は平成17年3月28日(月)、いずれも名古屋マリオットアソシアホテルで開催の予定です。

東海銀杏会平成16年度 春の講演
世界に開かれた地域づくりに向けて
中部経済産業局長
細川 昌彦(S52法)
細川 昌彦氏
細川 昌彦氏

講演風景

熱弁を振るう細川氏

 今日お越しの方の中には、既に私の話を聞いていただいた方もおられますので、ちょっと毛色を変えて、アメリカでの経験、東京、名古屋と見た中で、文化とかアートとか、少し違った視点で見たときに、この地はどうなのかということを話してみたいと思います。経済産業局長が何でこんな話をするのかとお思いかもしれませんが、私はアートとか文化に興味があり、そういう個人的な趣味で話させていただこうと思っています。
 この地域の特色という話で必ず出てくるのが、物づくりで元気がよく、日本の中で一番景気がいいということですが、他方、弱点ということで言われるのが、情報発信が足らないとか、やや閉鎖的だとかということでしょう。この強みや弱みは、日本経済がそもそも持っている特色であり、それが濃縮した形でこの地にあるのかなという印象です。

●万博のねらいは「世界へ」
 来年は万博がございます。何のためにやるのかといわれますが、究極のねらいは、この地域が世界に開かれた地域づくりをするきっかけになればということだと思います。これから先、万博をきっかけにして、あるいは準備の段階から、目指すべき方向は何かという共通のイメージを持っておいた方がいいと思います。
 私はニューヨークに3年、シリコンバレーに1年いました。何があの地域の活力の源泉かと常々考えていたんですが、一言で言えば、世界のありとあらゆるところから人と金、企業、優秀な経営資源を磁石のようにどんどん引き寄せていることだと思います。ニューヨークの場合、これから先のグローバルな世界で、付加価値の高いものをどうやって引っ張り込むか、そういう競争をほかの国の都市と一斉にやっているという感じがします。
 さて、これまでこの地域は大変恵まれていたと思います。自給自足とまでは言いませんが、ある程度自分たちで充足できる豊さがあった。しかし、これだけグローバル化してきた中で、このままでいいのかという問題提起が、我々の前にあると感じます。万博を機に、どうやって世界のすぐれたいろんな資源、資産を磁石のように引っ張り込むか、こういう目的でやっていくべきだという気がします。
 そういう観点から、幾つか具体的な話をします。一つは、この地域の経済団体や自治体の報告書に必ず書いてある「地域ブランド戦略の重要性」です。これが大事だということは、私も同感です。ただ、地域ブランド戦略が現にあるかというと、これが課題ではないかという気がします。

●大事なのはブランド名
 例えば、企業のブランド戦略にとって一番の基本は、ブランド名だと思います。世界に発信する局面での名前、例えば「名古屋ブランド」がありますし、愛知県は「愛知ブランド」と言います。中経連は「中部ブランド」、あるいは「東海ブランド」という言う方もいらっしゃいます。いろんな名前がありますが、大事なのは、内輪の論理ではなくて、外から見てどうかということではないでしょうか。
 私が着任するときに、アメリカ人の友達とメールでやりとりしました。「名古屋」という名前は、知っている者が何人かいましたが、「愛知」はゼロでした。「中部(セントラルジャパン)」と言ったら、「何のことかわからない」と言われました。「東海」も知りませんでした。
 これから先、民間マーケティングの発想でということからすれば、ブランド名が第一。その例で申し上げたいのは、アメリカの「グレーター・ワシントン・イニシアティブ」です。ワシントンDCだけじゃなくて、バージニア州の北の方、メリーランド州の南の方も入れて、地域一帯をハイテク企業の集積地にしようという運動です。イニシアティブというのは、いろんな運動、活動の一般名詞で、略してGWIとは「大ワシントン経済圏」でしょうか。これを10年前に始めました。ワシントンDC、メリーランド、バージニアという全く違った三つの州が一緒になって地域開発戦略をやろう、GWIという名前で外国企業をここに誘致しようというのです。
 まず、半官半民の団体をつくりました。マーケティング戦略をやる母体です。もともとこの地域は、航空機産業やバイオ産業があったり、情報通信産業が集積していたんですが、さらにそれを強化しようとのねらいです。非常に成功しており、年間予算は、当初、10億円から始まり、現在は20億円の規模になっています。
 そのときに一番問題になったのは、名前でした。ワシントンは、政治の街というイメージが強いが、ここは経済、ハイテクの街でもあるというブランド・イメージを打ち出すために、GWIをつくったわけです。既に、島津製作所はじめロッキード・マーチンとかモービルとかオラクルとか、いろんな企業がここに集積しており、大変感銘を受けました。

●GNIで盛り上げたい
 そこで私は、「グレーター・ナゴヤ・イニシアティブ」ぐらいがあってもいいんじゃないかと、GNIを最近提唱しております。日本語に直せば「大名古屋経済圏」といいましょうか、3県1市が一緒になってやる運動をぜひ盛り上げていきたいと思っています。範囲としては、北は多治見、関、岐阜市、大垣、南は鈴鹿、亀山、四日市、東は豊橋、場合によっては浜松まで入れてもいいかもしれません。こういう地域を「大名古屋経済圏」として対外的にアピールしていくという姿勢が要ると思います。
 二つ目は、ブランド・ステートメントです。単に名前が有名になるだけではなくて、どういうブランドのメッセージになるかということです。例えば、ジャガーなら「あなたと同じ、ユニークでセクシー」とか、アメックスですと「すべての人のためではありません。夢、何かを成し遂げた人のために」とか、ステートメントが必ずあります。ブランドに何を盛り込んでいくのか。その辺を、利害や立場の違う方々と共有していくことが、本当の意味のブランド戦略だと思います。
 いろんなことをするときの判断基準を、ブランドにとってプラスなのかマイナスなのかという基本戦略に立ち戻って、関係者に共有させること。それには今がいい時期だと思うんです。というのは、名古屋ブランドがこれほど注目される時代はなかったでしょう。コメ兵や矢場とんが銀座に進出したとか、名古屋嬢ファッションとか、いろんな情報発信、文化の発信というのが最近出てきたと思います。
 イギリスに「クール・ブリタニア」という運動があります。クールには、格好いいという意味があります。イギリスの格好よさを文化発信しようというのが、ブレア政権の一つの特色です。投資を呼び込むためには国家のイメージづくりが大事だというので、ブレア政権が最近やっているのは、イギリスらしさを、例えば、デザインあるいはアートでプレゼンテーションしていこうという運動です。

●広がる名古屋発の文化
 私は、その向こうを張って「クール名古屋」と言ってますが、そういう発想でやっていくのもいいんじゃないかと感じます。若い方の間では最近、名古屋発の音楽がメジャーになっています。例えば、夏川りみの「涙(なだ)そうそう」も名古屋発です。ファッションの世界もそうですし、名古屋発の文化が広がっています。
 アメリカでおもしろいことが言われています。GNPじゃなくてGNC、日本のグロス・ナショナル・クールが大変高くなっていると言うんです。確かに今、アニメの世界、音楽のポップアートの世界で、日本の文化、現代アートがアジアの若者に浸透しつつあります。この文化度が、日本は大変高くなっていると言われ、その中に名古屋発のものが結構あるんです。こういう文化、情報の発信が、意外と名古屋発でされているということを前提に、いかにこれを生かしていくかということを考えてみたいと感じています。
 「韓流」という言葉が、中国ではやっており、例えば韓国のテレビドラマ、音楽あるいはファッションが、クールだ、格好いいという評価になりつつあります。これをうまく利用しているのが携帯電話です。サムソン電子の携帯電話が、爆発的に売れています。文化、情報の発信と物づくりの販売、マーケティングをぴたっとうまく合わせてやっている典型例です。中国で知名度の高い韓国の女優を使ったマーケティング戦略の成果でしょう。
 日本のクールさは、アジアの中で評価が高く、欧米でもジャポニズムと言われて評価されています。日本人だけが知らない、気がつかないという面があります。これから先の日本の情報発信のあり方として、そういう点に着目した物づくりやマーケティング戦略が必要だろうと感じてます。

●民間で魅力ある街づくりを
 もう一つ申し上げたいのは、魅力ある街づくりということです。私がニューヨークで感銘を受けたのは「1%芸術プログラム」でした。ビル建設費の1%をアートに使いなさいという条例です。例えば、ニューヨークのビルの入り口にリキテンスタインの大きな絵があったり、有名な彫刻家の作品がビルの前に置いてあったり、街のあちこちにそういうものがふんだんにあるわけです。
 パリでも、シャンゼリゼ通りの景観のための路上の設備、例えば街路灯、信号機とかベンチ、バス停、あるいは公衆トイレといったものは全部、民間資金でやっています。いろんな企業が路上の設備をパリ市に寄附して、その見返りに、決められたスペースに企業の名前を冠した広告を出せることになっています。
 地域市民が主体になってコミュニティーのいろんな事業をやるのがコミュニティー・ビジネスです。そういう発想がもう少しこの地にもあれば、街づくりやら景観づくりも大分違ってくるという感じがします。例の「ど真ん中祭り」も、コミュニティー・ビジネスだと思います。この活動をしている人たちを側面的に応援していますが、地道に継続することが、単なるイベントではなくて、街づくりにもあっていいという感じがします。
 その関連で、気になるのが、都心のホームレス対策だと思います。市もいろいろご苦労なさっていると思いますし、シェルター一つをとってみても難しいことだとは思います。ただ、来年万博があって、外国の観光客に来ていただこうといったときに、都心にブルー・テントがあるというのは、問題じゃないでしょうか。やはり外から見てどうかという発想で物事を考えるべきではないかという印象を持ちます。

●「おかげ横丁」をモデルに
 私が感銘を受けているのは、伊勢にある「おかげ横丁」です。明確なメッセージを持ったコンセプトでデザインした点で、モデル・ケースという感じがします。対照的な例は、二見浦の夫婦岩です。あそこは、昔ながらの表参道のところが寂れて、人の流れがコンクリートの駐車場と土産物屋に集中しています。その結果、かつて遠くから見て感銘を受けた夫婦岩の光景が、すぐ目の前にあるという味気ない状態になっています。
 鉄道の主要駅や空港は、国の顔、地域の顔であり、どうやって顔づくりをするかという発想が大事になってきます。成田や関空を見た外国の友人たちは「コンリートとガラスの塊で、日本に来たなという感じが全くしない」と言います。外国人が日本で最初におりたつのが空港ですから、ここで、日本に来たな、中部に来たなという印象を与えるかどうか。顔づくりという発想が、空港や鉄道の主要駅には必要だと思います。
 それから、街づくりで感じますのは、街のにぎわいです。名古屋の街を見ていて、もう少し工夫すれば、もっと人の流れができるのになという印象を持つことが時々あります。 例えば、芸術文化センターです。コンサートの開始時間が6時とか6時半です。この時間ですと、働いている者はなかなか出かけられません。ですから、夫婦一緒にというパターンよりも、女性だけというのが多くなります。欧米では、みんな8時からです。これなら、食事をしてから行けるので、それだけで、周辺の人の流れが変わると思います。
 それと、美術館の閉館時間。金曜日は多少遅くしているようですが、閉館時間を9時にして、5時以降はBGMを流し、カクテルを飲みながら絵を楽しんだり、金曜日の夜は全く雰囲気を変えたらどうか。ソフトの仕組みを工夫してみる価値があると思います。

●イベントの工夫で街のにぎわいを
 美術館とかコンサート・ホールは社交の場です。ここをどうやって活性化していくかというのは、箱物をつくる以上に大事なことでしょう。また、街のにぎわいを考えるときに大事なのはイベントです。例えば、ジャズ・コンサートを野外で定期的にやるとか、サルサ踊りの催しをやるとか、イベントによって街づくりをするという発想も大事です。
 実は、東京国際映画祭というのは、20年前に私の思いつきから始まったイベントなんです。堺屋太一さんの「イベント・オリエンティド・ポリシー」という本に、国際的、世界的なイベントを継続的にやることで街をつくっていこうと書かれていました。例えば、浜松なら、世界音楽祭を継続的にやることによって、音楽関連産業がどんどん集まり、楽器の製造だけじゃなくて、音楽家の養成といった面も含めて、いろんな音楽関連のものをここに集積していく。こういう特色あるイベントを継続的に、世界に向けてやるということで街づくりをやろうというわけです。
 これを映像、映画の世界でできないかというのが私の発想で、当時、日本には大した国際映画祭というものがございませんでした。世界の三大国際映画祭は、カンヌ、ベネチア、ベルリンですが、日本の特色を出し、二番煎じにならない国際映画祭をつくっていこうと、かんかんがくがくの議論をしてでき上がったのが第1回東京国際映画祭でした。
 本当は地方の街でやりたかったんですが、お遊びにはなかなか国の予算がつかない。金集めが一番やりやすいのが、残念ながら東京だったんです。ねらいは、東京の渋谷に絞りました。渋谷の西武と東急が元気な時代でしたから、種金はそこから出していただきました。まだBunkamuraはございませんでしたから、渋谷商店街連合会や渋谷区と一緒になってを始めました。その後、紆余曲折があり、試行錯誤して今日のような形となり、途中からBunkamuraに移してやっています。
 評価はいろいろあると思います。私のオリジナルなイメージとは大分違ったものになっていますけれども、やはり国際的なイベントを継続的に繰り返すことによって街が変わっていくということではないかと思います。そういう意味で、これからこの地域にどういうイベントを持ってくるのか、あるいは始めるのかが大事だと感じています。

●外国人に優しい街づくりを
 せっかく万博をやるなら、その街づくりのときに、外国人に優しいシステムづくりという観点が欲しいと思います。ずっと名古屋あるいは日本にいますと、気づかない、当たり前だと思うことが、外国人から見れば当たり前じゃないということが、いろいろあるという感じがします。
 例えば、キャッシングのATM。日本のATMは、海外と規格が違うため、海外発行のクレジットカードでキャッシングができないので、外国人観光客には大変不便です。日本から海外へ行ったときは、できるんです。サッカーのワールドカップのときに、これが大変問題になりまして、臨時に会場周辺に対応できるATMを設置しました。
 商店街の中でクレジットカードが使える店は、まだまだ限られています。大須の商店街に、外国人を連れていってあげたいと思っても、クレジットカードが使える店がどれだけあるでしょうか。今、我々が考えているのは、英語や中国語で書いてある外国人用の大須商店街のマップに、クレジットカード対応可能な店は印をつけ、そういう店にある種のインセンティブを与えることです。そういう工夫をしながら、なるべく外国人にとって優しいシステムをつくっていくことが必要と思います。
 この地域を見て、もう一つ感じますのは、外資系企業が少ないことです。日本はそもそも対日直接投資がほかの国に比べて大変低く、アメリカの10分の1、イギリスの20分の1。これを増やそうじゃないかと、小泉内閣では、5年で倍増しようとしています。そういう中で、対日投資が日本平均よりも低いのがこの地域です。愛知、岐阜、三重の3県を足しても、兵庫県1県に満たないんです。多分、この地域は大変豊かで、自己充足できるということと関連していると思います。
 ただ、これから先もこれでいいのかどうかです。外資系企業は対日投資を促進すると言われますが、どうして誘致したらいいのか、誘致する意味があるのか。これは、単に雇用が増えるとか、工場団地が埋まるというだけではないんです。実は、外資系企業が入ることによって、経済のシステムが大きく変化し、構造改革が起こるんです。

●外資は構造改革を促す
 卑近な例で言いますと、スターバックス・コーヒーです。名古屋にも多数進出しています。名古屋ではまだ喫茶店が多数ありますが、東京の霞が関や大手町のオフィス街では、従来型の喫茶店は見当たらず、スターバックス形式か類似のシステムです。インテリアが大変ファッショナブルで全席禁煙、ゆったりと時間を楽しめ、エスプレッソコーヒーも、つくる人がちゃんとつくる。こういう新しいお店に、みんな殺到している。コーヒーは土地代と人件費の塊ですが、従来型の喫茶店で高いコーヒーを飲んでいたお客は、全部離れていったわけです。
 名古屋の喫茶店は、漫画や雑誌がたくさんあったり、モーニングサービスが立派だったり、付加価値があって残っているのかもしれませんが、こういう大きな流れによって喫茶業界の構造改革が起こっているわけです。安くて付加価値の高いコーヒーと時間を消費産業として提供するというスタイルが出てきたのだと思います。
 小売業で、私が注目しているのは、アウトレットです。チェルシーというアメリカのアウトレット・ディベロッパーが日本に参入しています。御殿場にプレミアム・アウトレットがありますが、あれが万博に合わせて、土岐市のインターチェンジ付近に進出するようです。ルイ・ヴィトン、エルメス、ナイキとか、100近くの世界各国の高級ブランド、有名ブランドが直接出店します。御殿場の方はものすごい人で、駐車場はいつも満杯です。物を買うだけじゃなくて、ショッピングを楽しむための場、空間を提供しています。
 もっと大事なインパクトを与えているのは、投資銀行です。投資銀行業務は、日本では欧米に比べて競争力のない分野です。金利収入じゃなくて、M&Aの仲介をする業務、アドバイザリー業務で収益を上げるビジネスとして、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーなどが日本に参入し、日本の投資銀行業務を大幅に変質させています。
 さらに、これから増えてくると思われるのが、ビジネス弁護士業務です。これも日本に余り競争力のない分野で、コンサルティング業務やM&Aの仲介業務などを、会計士や弁護士がチームを組んでアドバイザリー業務をやるというスタイルになっています。個人としての弁護士業務ではなくて、チームを組んだ業務ができる、それだけの規模を持った業態というのが広がりつつあります。東京で弁護士事務所の合併が進んでいるのも、外資の参入に対応するためと見られます。
 ホテル事業も変わりつつあります。日本の場合、ホテル事業は鉄道会社が中心になって始めましたから、シングル・プロダクト。要するに、いろんなセグメントによって分類するんじゃなくて、1種類なんです。したがって、行ってみて初めてクオリティーがわかる。ところが、欧米のホテルはグレードの違い、ブランドの違いがあって、名前だけみれば、大体クオリティーがわかるわけです。多分、外資のホテルは最高級のスーパー・ラグジュアリー・クラスを東京や大阪に投入してくるでしょう。いずれ名古屋にもくるでしょう。ブランドを差別化したホテル事業が国内に広がることによって、日本のホテル事業は、質的に変わっていくのではないでしょうか。

●地域の魅力を打ち出せ
 外資の参入が進む際に、この地域としては、何を魅力として打ち出せるかということを考えるべきだと思います。愛知県、岐阜県、三重県、名古屋市、経済団体の中経連、商工会議所、みんな、ここに力を入れていますが、二つほど課題があると思います。
 一つは、ばらばらにやっているということです。やはり広域連携が必要で、先に「グレーター・ナゴヤ・イニシアティブ」と申し上げましたが、外資の誘致、企業誘致活動において最も大事なのが広域連携です。海外から見れば、競争相手はアジアのほかの都市です。いかにこの地域に魅力があるかということを、共通のイメージで打ち出すことが欠かせないと感じます。
 もう一つは、誘致活動の戦略です。どういう産業をねらって、どういう強みを魅力として訴えるかという戦略性が、絶対に必要です。この地域の魅力は、大変厚みのある、すそ野の広い産業の集積です。ほかとの差別化ということで見たときに、いろんなビジネス・パートナーがここでは探せることが、大変有利なところでしょう。
 最近、モジュラー型とすり合わせ型という産業論がはやりです。パソコンとか携帯電話みたいに、安い部品を効率的にかき集めて組み立てていくのを組み合わせ型、あるいはモジュラー型といい、これに強いのはアメリカ、中国。それに対して、日本の強みは、すり合わせ型だと言われます。自動車産業に見られるように、いろんな部品メーカーと緊密なコミュニケーションを図りながら、特注品を納めたりします。そうしたところで取引先を見つけようとすれば、ここに参入してくる必要があるわけです。
 戦略についてのヒントは、この地域は情報・サービス産業の比率が大変低いということです。物づくりの地域であることの裏返しとして、第三次産業の比率が低いんです。そうしますと、対事業所サービスの企業が参入してきて、物づくりの人たちとのパートナーとなり、例えば、デザインの制作会社が物づくりの人たちと一緒になって、デザイン開発をすることもあると思います。いわば、この地域の弱みの部分を補っていくという誘致戦略があるかもしれません。

●インフラに大きな課題
 もう一つの課題は、インフラです。確かに、中部国際空港ができれば、インフラの面で他の地域に比べて恵まれている感じがしますが、大事なのは、アジアのほかの国々と競争しているんだという視点です。成田、関空に比べて、着陸料を低く抑えることは大変すばらしいと思いますが、注意しなければいけないのは、それでも、韓国とか香港とか、ほかの国々に比べれば、依然倍高なんです。
 港湾にしても、釜山、高雄、シンガポールなどに比べると、大変高いんです。名古屋港は、国土交通省が進めているスーパー中枢港湾の指定を受けようと頑張っており、民間にも委託しようということでしょう。そのときに、ITを駆使しているシンガポールの仕組みは大変参考になると思います。港湾のインフラが、従来のしがらみや仕組みから解放されて、いかにコストダウンできるかが、大きなテーマになると思います。
 対日投資の話で申し上げますと、最近、敵対的TOBということで、ソトーのケースとかが新聞紙上をにぎわしました。「ここは無借金経営で堅実なんだ」と胸を張ってみても、それが弱みになるという部分も持っています。財務戦略からすれば、単純に無借金経営ということではなく、いろいろ厚みを持った対応を考えていく必要があろうというのが正直な印象です。
 実は、この4、5年のいろいろな制度改正で、M&Aをやりやすくしており、外資系も入りやすくなり、事業再編もやりやすくなっています。敵対的買収も、かつてとは比べものにならないくらいやりやすい環境になっています。そういう環境、状況の変化を考えて、財務戦略を考え直して欲しいと感じます。

●中国資本の進出も要注意
 対日投資でもう一つ申し上げたいのは、中国企業の進出です。「黒猫であれ白猫であれ、ネズミを獲る猫はいい猫」と言われますが、中国企業も、これから日本に進出してくる外資の一つのポイントになるかもしれません。今はまだ、水準は微々たるものです。ただ、豊富な外貨準備が背景にあります。それに、中国は単純労働には強いが、多能工によるすり合わせ型には弱いと言われていますが、中国の指導者もこのことはよくわかっていて、日本の技能や技術に触手を伸ばしています。つまり、中堅・中小企業を買収して、技能やノウハウを取得しようということを戦略的に考えていると思われます。
 さらに、この地域が考えておいた方がいいと思うのは、国際会議、コンベンション、見本市といったものが大変少ないことです。開催件数とか参加者を見ましても、名古屋は全国の3%ぐらいです。これからこういうものも誘致し、見本市ビジネスにも手を入れていくことが必要だと思います。

●人材引きつける政策を
 人材の面でも、もっと良質の人材を引きつける政策が必要でしょう。例えば、留学生の受け入れは政策的に進めており、全国で10万人計画というのがあって、数は10万人に到達したものの、それほど質がいい人ばかりが来ているという感じではありません。この地域でも、中国、韓国から多数来ていますが、良質の留学生の受け入れというのは、先進国の一つのバロメーターだと思います。質のいい人たちが来るためには、大学あるいは教員の実力が一番大事で、この点をいかにアピールできるかにかかっています。
 平尾さんという、全日本ラグビー・チームの監督をされた方と1年前に話をしたときのことです。彼は「日本人は、野球のように、監督が指示をするゲームは強いが、ラグビーやサッカーなどゴールがある球技は本当に下手だ。ゴール型球技は瞬時の判断の連続で、プレーが始まると、監督がやれることは選手交代しかない。そういう競技で日本が弱かったのは、学校教育の影響じゃないか」と言っていました。
 私も全く同感ですが、今、徐々に変わりつつあります。サッカーに見られるように、海外へ出ていって活躍し、個人で瞬時の判断ができる選手が増えてきています。大学教育もそういう方向への転換が、必要になってこようと思った次第です。

東海銀杏会ゴルフ同好会・第6回ゴルフコンペ/優勝者寄稿
「意外なことに」
川崎重工業(株) 堀川 英嗣(S45工)
第6回コンペ 参加者のみなさん
 私の本ゴルフコンペへの参加は、3回目となりますが、いつも幹事の方々に大変お世話になっています。異業種異分野しかも中には初対面同士であっても、同窓故に、ラウンド中といい、その後の懇親会といい、実になごやかで楽しい時を過ごさせていただいています。
 今回は、村上さん、満淵さん、島川さんとご一緒させていただきました。私のスコアはいつもながら、やっと100を切る月並みなゴルフでしたが、唯一虎の子のバーディとワンホール4オーバーがダブルぺリア方式にうまくはまり、ハンディキャップをたくさん頂くことになり、意外や意外、優勝が転がり込んできたというところです。
 また岐阜から瑞浪までの往復では、小森先輩にお供させていただき、道すがらで人生諸々のご指南をいただきました。私より2回り年上の小森さんは、今年80才で、私の母親と同じ年齢にあたります。頭脳とゴルフは確かで、打たれたゴルフボールはほとんど真っ直ぐしか飛ばず、たまにはバーディもとられて、我々をぎくっとさせてくれます。小森大先輩どうぞいつまでもお元気で!
東海銀杏会の発足から尽力された
藤村 哲夫氏
(S29工) 逝く
藤村氏(平成14年3月・前列中央)
「三英傑の…会」に参加された時の
藤村氏(平成14年3月・前列中央)
東海銀杏会の発足から中軸のひとりとして参加され、会誌発行に際しては、立ち上げから軌道にのせるまで尽力された藤村哲夫さん(S29工)が、去る4月19日永眠され、21日に名古屋市昭和区・八事山興正寺で告別式が営まれました。
 生前、勤務先はもちろん、当会の活動にも、常に前向きに取り組まれた方だけに、遺徳をしのばれる人も多く、会員のお二人から追悼文が寄せられました。その追悼文を掲載すると共に、衷心より哀悼の意を表し、 謹んでご冥福をお祈り致します。

藤村賞で雰囲気づくり

 日本ガイシ(株)今枝美能留(S59理修)

 私が所属しております研究開発部門を藤村専務(当時の役職)が所管されたのは昭和61年の組織変更によるもので、それ以来私は東海銀杏会とその日本ガイシ社内連絡のお手伝いを任されてきましたので、僭越ではありますが本追悼文をしたためさせていただきます。
 今から約20年前といいますと多くの会社でそうであった様に研究開発自体が社内でも機密である部分が多く、研究者自体が社外はもちろん社内事業部門との交流も少ないという状況があったと思います。その中で、電力や環境装置という現業部門で客先交渉により信頼を得て事業を切り開いてきた藤村専務はかなりの違和感を覚えられたとのことでした。
 そこで、持ち前のオープンな雰囲気で研究所のカルチャーを変えることが自分の使命とお考えになり、その一方策として“藤村賞”という表彰制度を提案されました。研究成果はもちろん、各種社内活動、社外ボランティア、ゴルフ、マージャン…、何はともあれ一芸に秀でたものに贈答する、というのがこの賞の趣旨でした。
 組織の中で活躍した人だけでなく、陰ながら努力している人、プライベイトで特徴ある活動をしている人も含めてなるべく多くの所員に賞をあげる。それをきっかけに所内での交流がひろがり自由に意見がいえる雰囲気にする、というのが専務の意向であり200人程度の組織で年間50人程度が表彰状を戴いたと記憶します。そのような活動ができたのも普段から気さくに所員に声を掛けて情報を集めていた、明るくオープンなお人柄だからであったと思います。
 その様なトップのオープンな雰囲気は自然と組織全体を変えていくものです。藤村専務が所管されたのは2年間で本人もショートリリーフと割り切っておられたのですが、オープンな議論の場を大切にするトップの意向に従って、ベテランの経験と若者の活力が結集され組織全体が活性化されたと思います。新規研究開発テーマに関しても、我々のような当時の若手の意見や社外との共同研究等の積極的提案が多く取り入れられました。そのような組織づくりをしていただいた藤村専務には今でも大変感謝申し上げております。
 振り返って現在の日本では、官庁も企業も組織の閉鎖性に起因する不祥事が数多く発生している様に思います。不良債権処理の遅れやリコール隠し等にみられる様に、トップの問題先送りや隠蔽という個人的な保身に組織全体が引きずられ、その組織の存続を危うくするばかりでなく、国全体としての金銭的・人的被害を拡大する場合が多く見受けられます。藤村専務が目指したオープンでかつ構成員が自由に健全な意見を言える組織を創ることの重要性、これについて本追悼文をしたためながら改めて考えさせられたしだいです。
 私たちに大きな印象と健全な組織を残していただいた藤村専務を失ったことは大変残念です。心からご冥福をお祈り致します。


温かさと純粋さと

 淺野 道子(S35経)

 私とは、東海銀杏会の広報委員長と副委員長として5年間、銀杏会通信11号までの発行で苦楽をともにしました。去る4月、すい臓がんでお亡くなりになられ、先生の実像の一端を知る者として、ぜひ先生をお偲び申し上げたいと思い、投稿いたしました。
 先生は、昭和29年に工学部電気科卒となっていますが、肺病のため2年遅れて卒業、日本碍子へ入社されました。何年か前に、27年卒業の電気科の夫妻30人を郷里の山口県へ連れて行かれる旅のお供をしたことがありました。私は、その時見せてもらった青海島の絶景が忘れられず、習い始めて1年という日本画に描きました。
 その折、吉田松陰の研究者でもあった先生らしく「ここは僕の青春時代の原点で、友人とキャンプしながら将来を考えた思い出の場所。ここの景色を見ると、元気が湧くんだ」とおっしゃっておられたので、手術後にこの絵をお贈りしました。
 玄関には、東山魁夷が同じ場所を描いた絵(100万円で購入されたとか)が飾ってあるというのに、私の絵は寝室に飾ってくださいました。「とても気に入り、毎晩眺めています。如何ほどの値段をつけたらいいのやら」と喜びのメールをいただき、恐縮したこともありました。
 先生はまた、無類の筆まめでした。郷里の山口新聞に随筆を連載されていましたが「いつ死ぬかわからないから」と、数回分ずつまとめて送られていたそうです。多分、ご自分の命は2年ぐらいと思い決め、遣り残して悔いることがないようにと努められたのでしょう。奥様との旅行も、そのひとつのようでした。
 一言でいえば、先生は風貌さながら春風のように、温かい人間性を備えられた方でした。東大卒はとかく、頭はよいが人間性に欠けるといわれがちですが、先生はいつまでも青年のように純粋で、年齢を感じさせませんでした。ボート部員だったからでしょうか、とても立派な体格で、遊びも半端でなく、ゴルフ、マージャン、囲碁と、何でもこなされました。この気性であればこそ、直腸に始まり、腎臓、肝臓と数度ものがん手術にも耐えられたのでしょう。
 それにしても、男の75歳はまだ働き盛りです。東海銀杏会にとって、基礎づくりをされたひとりであり、まったく惜しい人を失いました。10年間、教鞭をとられた中部大学にしても同様でしょう。葬儀場には、すすり泣きが広がり、私も思わず口を押さえたひとりでした。
 先生、どうか安らかにお眠りください。

東京大学の沿革 その9
故・藤村 哲夫(29工)
新制への移行と白線浪人問題

学制改革

 アメリカは、わが国の戦前の教育が軍国主義を育てた温床とみていた。そのためにGHQは、早くからわが国の教育改革を目論んでいた。とくに旧制高校から帝国大学に進んだ一握りのエリートたちが、戦前には政官界を牛耳っていて、彼らが軍部と組んで、わが国を戦争に導いたと認識していた。したがって、教育改革は、このエリートコースを排除することも一つの目的であった。
 前回に述べたように、昭和20年8月の敗戦と共に、本学では自らの手で戦時色払拭の改革を進めていたが、続いて、GHQ主導による大掛かりな教育改革が始まった。
 昭和21年8月に内閣総理大臣の諮問機関として教育刷新委員会が設けられ、その建議に基づいて、昭和22年3月に教育基本法と学校教育法が公布され、4月より実施に移された。
 この法令によって、現在の6−3−3−4制の学制が発足した。こうして大学は、新制高校卒業生を受け入れて4年間の教育をおこなうことになった。
 新学制に移行するに当って、東京大学は東京大学設置認可書類を文部省に提出した。「新制東京大学は、旧制東京大学、第一高等学校、東京高等学校、東京大学付属医学専門学校を包括し、新設の教養学部、教育学部を含めた9学部によって編成され、これに10の付置研究所と5学部に付属研究設備を設ける」という内容であった。
 そして、昭和24年6月に新制東京大学は入学試験をおこない、7月に入学式を挙行した。こうして、新制東京大学が発足した。
 旧制の学生はそのまま在学し、昭和28年3月に最後の卒業生を送り出して終った。
 旧制高等学校は、昭和23年4月に最後の入学生を受け入れたが、彼らは翌24年3月に「旧制高校1年修了」として旧制高校を追い出された。
 昭和22年以前の旧制高校入学者は昭和25年卒業で打ち切り、卒業者には旧制大学の受験資格が与えられた。
 東京大学では、昭和24、25年の両年度に新制、旧制両方の入学試験をおこなった。そして、旧制東京大学の入学試験は、一応、昭和25年度で打ち切った。

白線浪人問題

 前々回で紹介したように、戦時中の旧制高校入学者と旧制国立大学入学定員の差と旧制大学の門戸開放によって、旧制高校卒業生の大学進学への道は狭くなり白線浪人が激増した。
 昭和25年度で旧制大学の門は閉じられたので、それまでに旧制大学に入学できなかった白線浪人たちは新制大学を受験する他はなかった。ところが、新制大学の受験は白線浪人にとっては非常に不利であった。それは、旧制高校と新制高校とでは、学習内容が大きく異なっていたからである。現実に新制東大の入学試験では、旧制一高卒業生よりも某新制都立高校卒業生の方が入学試験の成績は良かった。これは学力の差ではなく学習内容の差によるものであった。
 専門学校卒業生は、社会ですぐに役に立つ専門教育を受けており、各種の資格も与えられて社会では喜んで受け入れるが、旧制高校卒業生は教養教育しか受けていないので、何の資格もなく、社会ではすぐに役に立たない。
 白線浪人は、本来、帝国大学入学が約束されたエリートたちである。しかし、理屈が多くて実務に疎い者ほど世の中で扱いにくい者はない。そのために、頭でっかちな白線浪人は社会で疎外されていた。
 私ごとで申し訳ないが、私自身もこの渦の中で翻弄された。私が、昭和23年に旧制高校を卒業して本学工学部電気工学科を受験した時、競争倍率は7倍を越えていた。そして、受験に失敗して白線浪人になった。
 当時は食糧難で、家族の食料をつくるために、毎日、半日は百姓仕事をしなければならなかった。その中で、これまでの行きがかり上、東大以外を受験する気にはなれず、再度の東京大学の入試に失敗すれば百姓になる決心をしていた。24年度の競争倍率も前年とほぼ同じであったが、幸い入学できた。
 このような体験を持つ本会会員は少なくないと思う。しかし、苦労はしたが、本学に入学できた者は幸せであった。私の友人の中には、無念な想いを胸に大学進学を諦めざるを得なかった人たちがたくさんいた。
 因みに、私の卒年が29年になっているのは在学中に2年間病気休学したことによるものである。旧制で入学したので、卒業資格も旧制であった。
 閑話休題、再び本論に戻る。
 昭和24年度の全国の旧制大学の受入実績は1万4千人、そのうち旧制高校卒業者は6千6百人であった。昭和25年度の旧制高校出身で旧制大学進学希望者は、新卒9千1百人、白線浪人9千5百人、合計1万8千6百人もいた。前年度の大学入学者の実績からすると、単純計算で約1万2千人の白線浪人が出ることになる。
 文部省としては、それを放置するわけにはいかない。これは大学問題というより社会問題であった。
 白線浪人救済のために昭和24年9月、文部省は急遽、旧制国立大学に収容人員の増加を求めた。東京大学は収容に余裕がないとして僅か3.5%増やしただけであったが、旧制国立大学全体では約一割入学者を増やした。しかしこれでも、25年度の入試を終えた段階で、まだ7千人の白線浪人が残っていた。
 さらに文部省は白線浪人救済のために、昭和26年に臨時募集を計画した。それに応えて、東京大学では、千葉キャンパスの生産技術研究所に工学部分校を設置し216人を入学させた。この学生が卒業した29年3月に工学部分校は廃止された。
 昭和26年1月には白線浪人の大学編入試験が実施された。本学では、この試験で731人の編入を認めた。これで白線浪人問題が解決したわけではないが、文部省は、ここまでで白線浪人対策を終焉させた。

三英傑の遺構を訪ねる会・第5回 長久手古戦場(4/18・日)
世話人 清水 順二(S49工)
安土城・天守跡にて
安土城・天守跡にて

さわやかな晴天に恵まれて…
さわやかな晴天に恵まれて…

信長の面影をたどり安土から長浜へ

 去る4月18日(日)、第5回三英傑の遺構を訪ねる会が15名の参加で開催されました。今回は、少し足を延ばして滋賀県の八日市の近郊にある安土城址を訪ねました。いつものメンバーのほかに4名の初参加者と3人の奥さまのご同伴もあってにぎやかな顔ぶれになりました。
 天候にも恵まれ、朝9時に車2台で金山を出発、11時に安土城考古博物館に到着。隣接する安土城天守『信長の館』も見学しました。この天守は1992年のスペイン・セビリア万博で日本館のメイン展示として、最上部5階6階部分が内部の障壁画とともに原寸大にて忠実に復元されたものです。きらびやかな装飾や色使いとともに八角形の天守の形状は他に類を見ない信長ならではのユニークさが感じられます。
 近くの安土城址までは車で移動し、昼食をはさんでの自由行動になりました。大門付近は今まさに発掘中で、そこから延びる大手道の直線階段の両側には、秀吉と利家の屋敷跡などが当時の面影を彷彿とさせんばかりに迫ってきます。健脚組はそこからさらに標高差約100mの天守跡まで約20分で登り切りました。天守跡には石垣のみが残され、本丸跡の礎石配列から往時が偲ばれます。
 天守跡の石垣に腰を下ろして、遠く霞む琵琶湖を眺めながら時おり吹き抜けるさわやかな風の中で弁当を食べました。(この城で、家康の饗応役の明智光秀が信長に不始末をこっぴどく怒られて…)
 安土城を後に一路長浜へ(秀吉が浅井攻めの褒美にもらった領地に城を築き、ご機嫌取りのために信長の一字を取って今浜の地名を長浜と改めたのはご存知のとおり)。長浜城見学後、北国街道沿いの黒壁スクエアを散策。もうちょっと時間があればと別れを惜しみつつ長浜を後にしました。金山での解散後、有志で反省会もしっかり楽しみました。
 次回は紅葉のころに、小谷城などを訪ねる予定です。
 新規参加者、夫婦同伴も大歓迎です。連絡先は、東海銀杏会(新企画担当)清水順二(49工卒:山田商会)
です。

 E-mail:simizu.junji@ymax.co.jp
 電 話:052-871-9811 FAX:052-871-9869

囲碁同好会・三木会/優勝者寄稿
ボケずにまだ上達を実感
〜囲碁大会優勝の弁〜
小崎 栄一(S25工)
喜びの小崎氏
前号(14号)にて、去る1月17日に行われた「新春囲碁大会」の記事を掲載しましたが、その後、優勝者の小崎栄一氏(S25工)より寄稿文をいただきました。囲碁に対する勤勉さが伝わる内容に、勉学は年令に関係ないものとつくづく感じ、敬意をはらいつつ、ここに掲載いたします。


 囲碁同好会に入れていただき3年程になります。初めは同会のハンディが95点位でしたが、最近110点を超えるようになりました。腕が上がるのは楽しいもので、猪子恭秀さんの世話される「なつめ」での三木会で東大強豪の皆さんにもまれ、初めの頃は岡田啓作さん(S42法)に6目も置き、ころころ負かされていましたが、今では4目で勝てそうな雰囲気になりました。
 勝てば面白く勉強も弾むもので、スターキャットの囲碁番組をよく見ますし、バスや地下鉄で必ず囲碁の豆本「次の一手」を読んでいます。待ち時間のイライラ解消にも役立っています。
 また、強い相手を求めて対局数も増えました。東大電気仲間の藤村哲夫さん(現在は故人)グループともよく対局します。
 碁の腕を上げるのが楽しみになった今日この頃、丁度新春囲碁大会がやってきました。雪の降る寒い日でしたが早くから会場にかけつけ、お陰でプロの武田さんに手合わせを願うことが出来ました。実は7目も置くので気楽に打ちましたが終わり頃「切られ」てしまい、大石を取られました。そのため本番では「切られない」よう、逆に相手を「切る」ように考えて行きました。そのおかげか終わってみたら5局全勝、優勝の名誉を博しました。
 年令もすでに78才となって、ボツボツぼける頃ですが、まだ腕が上がるかと思うとまことに楽しく、皆様にも三木会の「なつめ」での精進をお勧めします。
編・集・後・記
寄稿歓迎!
今夏は、暑いのか涼しいのか、台風も早々とやって来たりと、ちょっと変ですが、会員諸氏にお変わりありませんか。
 今号も、細川昌彦・中部経済産業局長の講演録を核に編集しましたが、同局長は6月に転勤され、講演で示された指摘や提言は、貴重な「置き土産」となりました。今後のご活躍をお祈りします。
 また、東海銀杏会通信の5号から「東京大学の沿革」を連載されてきた藤村哲夫さん(S29工)が亡くなられたのも、思いがけないことでした。連載の原稿は、まだ数回分残っていますので、遺稿として掲載することにしています。
 なお、遅ればせながら、小生もメールに取り組み始めました。アドレスは「tunoda-u@chunichi.co.jp」です。ご投稿をお待ちしています。(角田)
予告 次回の秋の例会は9月15日(水)です


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